「ダサい」という言葉を発する人間は大体小物だという説

ダサい

我々が子供〜若い時までよく聞きよく使う言葉の一つとして「ダサい」という物があります。カッコ悪いという意味で使われるこの言葉、一度は誰でも使ったり感じたことはあるのですが、その言葉を外部に向けて発信する人は大体小物だという説を書いてみたいと思います。

ダサいという主観を主張する痛い人たち

ある時、某巨大掲示板で趣味系のスレッドを覗いていると、こんな書き込みを見ました。

  • ○○使ってる奴いたけどダサくね?
  • 色はいいけどデザインがダサすぎ
  • どんな教育受けたらあんなダサいの使うのよww

要はギアの見た目についてダサいという考えを持っている人たちです。

「あれってダサいと思われてるのか・・買わんとこ」
「これは世間標準でいえばダサいのか」
「俺はいいと思ったのだが・・・」

この関係のない第三者の評価に感化され、自分の選んだものを否定してしまう人がいるのも事実です。

また、その「ダサい」物を選んだ人たちに対し、軽蔑の眼差しを向けていることも多々あります。

自分では絶対に選ばないようなデザイン、色使い、機能など、そういう物を持っている人の考えを理解できない挙句、「ダサい」という言葉で片付け一蹴してしまいます。

そして、この「ダサい」と言われる物は万人から見てダサいのかといえばそうではなく、わざわざその「ダサい」物を選んで使っている人も確実に存在するのです。

自分基準で判断して発するこのダサいという言葉を掲示板とは言え人に伝えるのは何故なのでしょう?

また、このダサいという言葉が生まれる理由も考えてみたいと思います。

自分基準に合致していなければダサい

誰にでも自分基準の良さというものがあります。幼少期より様々な経験をして自分のスタイルや基準が確立されていきますが、当然のようにそこから外れた物は見向きもしなくなります。

例えるまでもなく、自分の身の回りの道具や服、部屋の物の配置、異性の好みまでも全て自分基準で選んだ物のはずです。

この自分基準に合格できない、かつ嫌悪感まで抱いてしまうものがダサいというカテゴリーに入ってしまいます。酷い場合だと、物に対してだけでなく、それを選んだ人までもダサいという烙印が押されたりします。

この基準は誰でも大なり小なり持っている物で、物を見た時に

「あ、かっこいいな」
「うわw これはダサいな」

と判断し、自分にとって使っていいもの、使いたくないものになっていきます。

ダサいと思うことは思考として全く問題ないのですが、これを前述の様に外部に向けて発信してしまう痛い人が少なからず存在するのです。

他者依存から抜けられない人

自分の基準(主観)は世間から見てどうなのか?という事を気にする人がいます。いわゆる「自分に自信がない人」「他者依存の人」です。

他人からどう思われるのか、存在しないはずの世間一般の基準から見てどうなのか?と考えなくてもいい事を一生懸命考えます。

誰も見向きもしないような自分が、まるで自分の行動範囲内にいる全ての人の監視下に置かれているような錯覚を起こすのです。

そうなると自分に自信がない人は不安で仕方がありません。自分の考えが合っているのか外部に共感を求めるようになります。

  • あれってダサいよな
  • これダサくね?

他人がどう思ってようが関係なく、また、他人の基準と自分の基準は全く違うはずなのに「他人の基準に対して自分はどうなのか」を心配しています。

うん、確かにダサいね、と共感が得られたらしめた物です。自分の判断基準は間違っていなかった、と脳は喜んでしまいます。

そして何故か知りませんが、優越感を得てしまうのです。

自分は常にダサいと言える立場で、自分の判断基準こそが世界基準!ダサい=悪!という意味不明な信念までもが生まれてくるのです。

日本人は人目を気にする民族

日本人は「遠慮」「配慮」「ムラ社会は皆平等」という物がDNAレベルで備わっている民族です。

言い方を変えると他からの批評はどうなのか、他人に迷惑をかけていないかを常に気にする民族でもあります。

そして子供の頃から足並み揃えないと異端児扱いしちゃうよ?と学校や集団で叩き込まれていきます。

ビジネスとしてこの特異な民族性を利用しない手はありません。

ファッション誌では「こうすればダサくない!」「やりがちなダサいファッション」など誰目線の意味不明な企画が組まれ、これ以下は不合格!的な空気を作ります。そこには独自のスタイルなどは存在せず、根拠不明の基準を読者に押し付けます。

読者も大体ムラ社会で育ち、他者基準を欲しがる人ばかりですから、この主観押し付けビジネスも十分成り立つ訳です。

しかし何故かこの様な本の編集者も本に感化される人も「個性」という言葉が大好きですw

いい歳して「ダサい」を発してたら痛い

年齢を重ね経験を重ねると主観と視点の幅が広がり、見た目の良し悪しは自分の人生を左右する物でもなく単なるオマケ扱いでしかなくなります。

そして歳を重ねると、段々とこの「ダサい」という言葉を使わなくなっていきます。

  • 自分の基準の幅が広がった
  • 視点が広がり別の見方が出来る様になった
  • 本質を捉え、見た目などは二の次
  • 他人のダサいという評価が何の意味もない事に気付いた

いわば思考が成長してきた状態です。

逆に、歳を重ねてもダサいという言葉を発してたらそれは問題なのかもしれません。経験不足から来る思考の成長が若い時から進んでいません。

ニート君
ニート君

誰が何使っててもどうでも良くね?

ニート君
ニート君

何か理由有って使ってるんだろ?

という風に考えたりするのです。

また若い時から自分の信念をしっかり持っている人は、ダサいという言葉には反応しません。他者による評価で自分という軸が左右されることもなく、そして人からのダサいという評価で自分が否定される訳ではないという事を知っているからなのです。

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