前回の記事で運の正体とは「試行回数の結果の総称」と断じましたが、今回の記事では偶発的な出来事、例えば宝くじに当たる人とか事故に遭う人など、いわゆる「運の良し悪しが結果を左右すること」について自論を述べてみようと思います。
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運が良かったのか、それとも意識していない結果か
前回の記事では、運の強さ=試行回数の多さによる結果だと断じましたが、偶発的な出来事に運を結びつける場合はどうでしょうか?
あらゆる危機を寸前で回避できれば「運が良かった」などと評価を下してしまうことが多々あります。
遭難しかけたが、運よく人が通り助かった
例えば、冬山登山パーティーの一行が遭難した時に一緒に行動していた人が亡くなり、自分は偶然通りかかった人が見つけてくれて助かった。運が良かった。と言うようなエピソードはちらほら耳にします。
確かに自分では意識していない、想像だにしなかったことが現実に起これば「奇跡だ」「運だ」と見えない力のお陰様にしてしまう事でしょう。
ですがここでちょっと考えてみたいのです。
そもそも助けてくれる人が現れるまで生きていられたのは運のおかげなのか?
日頃からの体力作り、食生活、登山時の装備、ルート、当日の健康状態に至るまで「運が助かった自分を作った」わけではなく、自分が生き残れるだけのHPは、日頃から自分で積み上げた物のはずです。
人が通りかかったのは偶然としても、その時点で死んでいては元も子もありません。
助かった人は強運の持ち主でもなんでもなく、ただ日頃からの積み重ねが招いた結果だと思うのです。
そして助かった人も身体にダメージを負ったり、精神的にやられてしまったりと、およそ「強運の持ち主」とは言い難いその後を送っていたりするのはよく聞く話です。
交通事故に遭いそうになったが寸前で回避できた
交通事故を寸前で回避して「運が良かった」というのもよく聞きます。
また、大怪我を負う様な事故に遭い、奇跡的に生還した場合などなど。
打ちどころが悪かったら逝ってた、だから今無事な自分は運がいい、と。
しかしよくよく調べてみると、警察などが現場検証をし、原因、周囲の状況、速度、車の構造、当日の双方の心理状態、等色々な面から検証した結果として、助かったなりの理由が何かあるはずです。
ただ、それらステータスや状況をいちいち全て把握しシミュレーションなどできないから見えない力のせいにしたりします。
ギャンブル運の正体はどうなのか?
ギャンブル運といえばコレ!という物に宝くじがあります。
宝くじに当たる人は運が良い、当たらない人は運が悪いなんて話をよく聞きます。
例えばロト6、1等当籤確率は約600万分の1で、1口だけ当たり、残りの599万9999口はハズレ(2等などもあるけど)なのです。
買ったほとんどの人がハズレるわけですが、これも運のせいにして良いものでしょうか?
また、宝くじは全通り購入すると運の良し悪し関係なく大当たりを必ずゲットできます。
しかしそれには受け取る賞金の何倍ものお金が必要で(ロト6は1等平均2億に対し12億円以上の投資で1等100%獲得可能)、そこまで投資して1等を当てて運を論ずるアホは流石にいないでしょう。
これら確率系のギャンブルは、ただ当てたいのならば試行回数が物を言いそうです。
また、当籤し億ゲットできた人のその後などを調べてみると、およそ運が良いとは思えないような生活を送っていたりします。
海外では高額当籤金を巡りとんでもない事件まで起きています。
結局、くじ運、ギャンブル運なんてのも結果だけをみてそう呼んでいるのであって、最初から存在しない物であると言えます(キリッ)
運は自分でコントロールできるもの
とまぁ運の正体については前の記事同様
と結論づけたいと思います。極論で言うと今流行りの「自己責任論」ってやつと一緒です。
運の良し悪しも自分の行動次第、考え方次第でどうにでもなること、そして結果がダメだから運が悪いのではなく、試行回数を増やせばそのうち結果もついてくるよ、ということを主張したいのです。
そして大事なのは、運の良し悪し、運の存在、これらは信じるのも自由ですが、運に依存するような生き方では何も産みませんよ、ということです。
結果が出なかったら「運が悪いな」で片付けてしまっては失敗の原因すら見落とす事になります。また、成功したときに「運が良かったな」も同様、上手くいったなりの理由が有るはずで、そこに気づかないと「運が良かった」の一言で終わり、次回以降に活かせそうなノウハウすら得ることもなく、前は運が良くて成功したが、今回は失敗した、運が悪かったなどと言ってしまうのです。
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