私が20年以上パチンコ中毒だった時の話 その1

パチンカス

私は数年前まで、自他共に認めるパチンコ中毒患者、いわゆる
「パチンカス」
でした。今思えば何故あのような物にハマっていたのか不思議で仕方がありませんが、パチンコ中毒から上手いこと脱出出来たので、思い出として書くことが出来ます。

ハマった理由、そしてやめられた理由も何回かに分けて書いていこうと思います。

情けない話が続きますが、興味のある方は読んでいただきたいと思います。

もしこれを読んでくれた人が、禁パチ・禁スロなんかしてくれれば冥利に尽きるというものです。

パチンコとの出会い

当時高校生の私は、クラスメイトが雑談の中で「パチンコに行って〇〇万円勝った」とか話をしてるのを聞き、パチンコというものに興味を持ち始めました。


「そんなに簡単にお金儲け出来るのか?」という好奇心
「バレたら停学退学だしなぁ」という不安。

この時不安の方が勝っていれば、私ももしかしたら真っ当な人生を送っていたのかも知れません。

高校生の私は家の近くにある、いつも車がいっぱい停まっているパチンコ店にアルバイトで稼いだ3000円を持って入りました。

パチンコ店に初めて入った感想

おっさんがタバコを咥えながら黙々と台に向かっている異様な光景。

そして、その音。店内にはBGMと台から出る音で耳栓が欲しくなるほどの煩さでした。

とりあえず空いてる席に座り、500円玉を玉貸し機に入れたところ、たくさんの球が私の台に供給されました。

なんだかよくわからず右往左往していると、隣のおじさんが

おっさん
おっさん

「あんちゃん、初めてかよ?」

ニート君
ニート君

はい。何すればいいか分からなくて」

おっさん
おっさん

「ここを回してここ狙うんだよ!」

ニート君
ニート君

「あ、そーすか。どうも・・・」

ハンドルを回し球が描く軌跡を見ながら盤面を見てみる。

「ぶんぶん丸?何だぶんぶん丸って」

その台は一世を風靡した羽物、ブンブン丸。当時の私はそれが台の機種名だという事も、球をどこに向けて打つのかも知らなかったのです。

しばらく打ってるとだんだんと球が減ってきます。

「つまらんなぁ。面白いのかこれ」

そう思った時でした。盤面が煌々と輝き、BGMが鳴り出しました。

ニート君
ニート君

「なんだ、何が起こった!!!」

おっさん
おっさん

「あんちゃん、大当たりだそれ!!」

みるみる球は増えていき、その後も何回か大当たりに入り、おっさんに教えてもらいながら両替所に行き、私は1時間も経たないうちに5000円を手にしていました。

「すげぇ・・500円が5000円に・・・」
「パチンコ面白すぎw」

私の脳は、この程度の出来事で簡単に壊される程脆かったようです。

思えばこれが地獄の入り口でした。

歩みだした破滅への道

それからという物、私はアルバイト代が入るとパチンコ屋に行くようになりました。当時の機種で記憶に有るものとしては

「ブラボーキングダム」
「オロチョンパ」
「ビッグシューター」
「アレジン」

が店にあったと思います。ビギナーズラックとはよく言ったもので、初めての大勝以降、負けることが多くなりました。初回の勝ち分はとうになくなり、アルバイト代をつぎ込む日々。当たり前ですがトータルでは確実に負けていました。

高校生の身分でパチンコ中毒になりつつあったのです。

負けているのになぜ行くのか、これはパチンコをしない方々は普通に疑問な所でしょうが、私も含め皆思っている所では

「そこにパチンコ店があるからだ」

名言っぽいですが、当時の感覚ではこんな感じでした。おそらく、脳があの光と音、そして短時間で多額の報酬を得れる感覚に漬かっていたのでしょう。

アルバイト代は月3~5万円は貰っていたはずですが、全てパチンコに使っていました。

高校三年になり、私は運よく一部上場企業の会社に就職できる事となりました。卒業して地元を離れることになるのですが、卒業するまでパチンコ三昧で、早くも廃人確定の匂いがしていました。

楽しかったはずの高校生時代にあまりロクな思い出はありません。人並みの青春なんてほど遠い物でした。周りが運転免許を取る為に教習場に通っていても、私の家は貧乏だし、バイト代はパチンコに消えているし、とてもじゃないけどそんなお金出せない!というアホの極み状態でした。

社会人になってからもパチンコ三昧

地元を離れ、社会人になってからもパチンコ三昧の日々は続きます。

当時は寮に住んでいたのですが、悪友・悪先輩のありがたいお誘いもあり、行っては負け、行っては負けを繰り返していました。当時、貯金をして将来に備える、なんて事は微塵も考えた事が無く、ただただ本能のままにパチンコを打ち続けていました。

勿論、金がもつわけはなく、いつの間にか私は魔法のカードともいうべき

「ア〇ム」

「プ〇ミス」

系のカードを持っていました。当時は私の住んでいた田舎には無人契約機なんてものはなく、店頭での契約でした。店頭での契約中、店員さんを前に震えていた記憶があります。

「何をやってんだ俺は・・」
「何故ここにいる・・・」

情けなさでいっぱいでした。それでも、借りたお金を手にした後は、例によって店にいってしまうのです。

今考えると赤面物ですが、この時の異常な行動をいくつか紹介します。

財布の1000円で勝負

会社帰りに財布の中身を見ると1000円しか入っていなかったことがあり、何を思ったのか

「これで出たら金が増えるグフフ」

基地外の行動をはるかに超えた斜め上っぷりで、その1000円を持ってパチンコ店に入店。

1000円しか無いからな・・慎重に台を選ばなければ・・・

こんな事で勝負になるはずがありません。5分も経たず、その1000円は消えました。

借金の1万円が数分で消えた

いくつか借りていた先に某有名信販会社がありました。

現在ではコンビニでもどこでも気軽にキャッシングなんかが出来るのですが、当時は車で1時間走らせてやっとCD機が置いてある場所に着くという不便な時代でした。

私は例によってかつかつでしたので、車を走らせ、CD機でお金を1万円借り、帰ろうとした時に近くのパチンコ屋に足が向いていました。

涙目で打っても出ないものは出なく、先ほど借りた1万円が2000円に変わっていました。

帰りの車で泣きそうになりながら帰った記憶があります。

生活費が月1万円

当時は寮に入っていたので、この様な曲芸も可能でした。可能というよりそうするしかなかったのです。若手の分際では給料もそんなに多くはなく、寮費・食費・車のローンをひかれると残るのは1万円。何もできません。

何もできなければ増やすしかない・・・

そしてまたサラ金店に駆け込むのです。

私の20代はパチンコに染まって終わった

この様な異常な行動を繰り返す理由は、単にパチンコ中毒という物ではなさそうです。やはり母親がちょっと異常な人だったので、私もその遺伝子を受け継いだ可能性が高く、脳に軽く障害がありそうです。そう考えないとこの様な異常な行動の説明が出来ないのです。

母親とのお金の話はこちら↓

周りが結婚した、家を建てた、子供が生まれた・・・全て私とは無縁の世界の話の様でした。実際に20代で出来た貯金は

「0円」

いくら何でもそれは無いだろうと思うでしょうが事実です。私は20代、そして30代のほとんどをこの魔の集金システムに尽くしてしまいました。財形貯蓄や定期預金なんかあるはずもありません。資産と呼べるなにかもありませんでした。

今回はこの辺で。まだまだやばい話が続きます。

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